京論壇2015ブログ

北京大学と東京大学の学生による国際学生討論団体・京論壇(きょうろんだん)の活動を報告するブログです

「日中の英知の結集、ここにあり」

これは本年度の京論壇ファイナルプレゼンテーションのビラの見出しに、僕が書き入れた一言です。

 

 

ずいぶん大げさだなあと思われるかもしれません。

 

 

京論壇のメンバーは、半年弱という時間をかけて互いの価値観を引き出そうと、数多くの文献を読み漁り、フレームワークや質問を入念に準備し満を持して二週間の議論に挑む。されど所詮学生。知識レベルは専門家たちにははるかに及ばないし、まずメンバー全員がそれぞれ取り組むテーマを専攻しているわけではない。二週間の活動を通して、なにを残せるのか。

 

 

 

そもそも、果たして京論壇の活動は何の意味があるのか。

 

 

 

この問いに長いことすっきりいく答えを見つけることができず、正直ずっともやもやしていました。

 

 

 

しかし最近、少しずつではありますが、確実に、その問いへの答えをつかみ出している気がします。

 

 

 

きっかけの一つとしては、先日中国塾にお邪魔させていただいたときのことがあります。当日、中国塾にいらっしゃったのは、教授や元国会議員、マスコミ関係者など、そのなかでも、とりわけ中国に大変明るい方ばかり、そんな豪華なメンバーの前で、京論壇の紹介をさせていただきました。

 

 

 

紹介直後の休憩、紹介をした代表のところへ参加していた方々が次から次へと、京論壇のことを知りたいと来てくださった光景にとても驚いたのは、今でも鮮明に覚えています。その後の懇親会では、数多くの社会人の方に、僕らの活動を大変評価している、そして期待している、との話をたくさんお聞きしました。

 

 

「このような学生同士の交流が現在、そしてこれからの日中関係に寄与する」

「異文化を背景に持つ学生たちと闊達な議論を通し、相手を知り、己を知り、知見を広げることはとても大事」

「偏見を持たず、柔軟な頭だから、それはそれは有意義なものになるだ」

 

 

以上のことは確かによく言われることではあります。ですが直接聞くことで、この集団に対する、社会からの関心及び期待を大きく感じ、改めて自覚するきっかけになりました。また同時に、責任もより一層強くなった気がします。

 

 

 

たしかに僕らの二週間の議論は、明日の社会、日中関係に直接何かを残せるわけではないかもしれません。しかし、両国の未来を担うべき学生の本気のぶつかり合いは、何かしらおもしろいものを残せるに違いないと思っています。発言に特別な責任を負わない学生たちが、お互いの色眼鏡を取っ払い、両国の現状を共有し、互いの価値観を率直にたたかわせることで導かれだされるものは、僕らの心に残るものがあるでしょうし、社会に何かしらの問いを呈することもできるでしょうし、日中関係に新しい種をまくことになるのではないでしょうか。

 

 

 

何よりも、二週間の議論の軌跡、そして必死に生み出した結晶は、本質でしょうし、日中の英知の結集といっても過言ではないでしょう。

 

 

 

そういうものをちょうど一か月後の10月4日のファイナルプレゼンテーションで、みなさんに御覧に入れるため、まずはこの一週間、がんばってきます。

 

 

個人的にも、帰国したときに、この集団およびその活動の意義に確信を持てているような滞在にしたいです。

 

 

チーム東京、いってまいります。

 

 

 

京論壇2015 副代表 村松旺

 

(次のブログ更新は北京セッション終了後、9月中旬を予定しています)

サステナビリティ分科会 進捗報告

こんにちは。サステナビリティ分科会の俵藤です。

 

私たちサステナビリティ分科会は、両国におけるサステナビリティの捉え方の違い、そしてその違いが生み出された背景を明らかにすることを目標としています。

 

サステナビリティは全世界が共有できるゴールである」という言説があります。

その根拠として、環境問題には越境的な性質をもつものが多いため、国際的な協力なしに環境問題を解決することは困難であるという事実があります。また、自然環境は生き物としての人間の精神と強い繋がりを有しているため、世界中の人間がある程度の共感を持って環境問題の解決を目指すことができるだろうという考え方もあるようです。

 

この言説はある程度確かなものであると私は考えます。実際に、サステナビリティの重要性は国際政治の舞台において繰り返し確認されており、多くの国がサステナビリティを目指すための何らかの協力体制を取っているからです。

 

しかしながら、各国が全く同じ「サステナビリティ」を目指しているのかというと、実はそうではないようです。国によって、サステナビリティに対する認識や考え方はかなり異なるようなのです。

実際、私が学習してきた国連外交交渉においては、サステナビリティという言葉の定義は曖昧なものにされています。定義を敢えて緩やかなものにしておくことで、各国が自国の考える「サステナビリティ」を目指す余地を残しているように思えるのです。

 

私達サステナビリティ分科会のメンバーは、こうした国家間の認識の違いに強い関心を抱いています。

そこで、北京セッションと東京セッションにおける徹底的な議論を通して、日本の人々と中国の人々の間に存在する「サステナビリティ」の捉え方の違いとその背景を浮き彫りにしようと考えているのです。

 

北京セッションのキックオフが約10日後に迫った現在、私たちサステナビリティ分科会は、議論を通してこの認識の違いをしっかりと明らかにできるように最終調整を行っています。ですが、これがかなり難しいのです。

 

認識の違いを明らかにするための問いを作ることは、一般に難しいものです。認識というものは自分が身を置く環境の中で時間をかけて形成されるものであり、普段自分の認識を見直すことはないですし、どこを見直すべきかもわからないものです。

加えて、サステナビリティに関する認識を明らかにする問を作るのは特に難しいものです。サステナビリティに関して抽象的に論じることは非常に難しいため、具体的な問題(気候変動、大気汚染など)を取り上げつつ問いを作るのが順当です。しかし、具体的な問題を取り上げると、具体的な問題に関する議論に集中してしまい、本来の目的である「認識の違いを明らかにする議論」が満足に行えない可能性が高くなってしまうのです。

 

現在は、しっかりと認識の違いを浮き彫りにすることのできるような議論を目指して、ああでもないこうでもないと悩みながら調整を進めているところです。

残された準備時間を有効に使いながら、より適した問いを検討していきます。

議論の内容はその流れによって変質していくものですが、必要な時にうまくアドリブを利かせられるようにするためにも、必要な準備をしっかりと行っていきたいのです。

 

北京セッションの開催がいよいよ間近に迫り、サステナビリティ分科会は悩みながらも楽しみつつ議論の準備を進めております。

サステナビリティ分科会の挑戦とその成果に、ぜひご期待ください。

 

俵藤あかり

ぞくぞくわくわくしております

ここ数日、夏が遠くに逃げてしまったような涼しい日々が続きますね。こんにちは。今回ブログを書かせていただく平和分科会の四年信川絵里です。私は北京セッション開始五日前の9/2に北京に渡り、観光する予定なのですが、「北京って変圧器いるの?」「wifi無いの?!」と直前になってバタバタしております。

 

 

 さて、「平和」というぼやぼやした概念をどのように扱うべきか私たちはずっと考えあぐねていましたが(※2015-08-10の記事参照)、やっとテーマをしぼりました。現時点で確定しているテーマは(1)「Bilateral Peace」、(2)「Domestic Peace」、(3)「Historical Recognition」、(4)「Post-war Reconciliation」の4つです。(北京大側からの希望で、これに「ISIS」が加わることになりました。)

 (1)では国際社会での自国の振る舞い・役割・日本の政策について、(2)では主に人権問題を中心とした国内の“平和”について、(3)では歴史認識の違いやその原因(歴史教育など)について、(4)では戦後補償について、それぞれ話し合う予定です。

 

 今は、これらのテーマを踏まえて参加者全員の価値観があぶり出されるような質問を練っています。明らかにしたい仮説に基づき問いかけを作っても、仮説が見当違いだった場合の逃げ道も網羅しなければなりません。また、もっとふさわしい単語があるのではないか、この表現は誤解を招いたり相手を傷つけたりしないか、とワーディング1つにもこだわります。

 

 全く違う文化・価値観を持った人々と、センシティブなテーマについて話し合う難しさを感じつつ、「こうして戦略めいたものを練っていると議論じゃなくて交渉をしに行くみたいだなー・ω・。」と実はわくわくしています。

 

 そんな呑気な感想を抱いている私ですが、議論を重ねる度に、自分の心に根付いているあらゆる“偏見”について気づかされるのです。本番では、相手の心の底にある価値観や感情の動きに触れながら、自分の中の前提(常識という偏見)にも向き合うこととなるでしょう。

 

 

10日後にはもう本番が始まってしまうと思うと、ぞくぞくします……!

では、行って参ります。

 

 

 

文責:信川 絵里(平和分科会メンバー)

階層社会分科会紹介

 ある努力の物語を見てみよう。

 その高校生は高2の時点で学年ビリだった。しかし、あるきっかけで一念発起して努力を重ね、その1年半後には日本でも指折りの名門私立大学の受験を突破する。自分が置かれた状況がどんなものでもあきらめずに努力を重ねれば未来は切り開ける。どこかで聞いたことがある努力神話だ。

 おっと、忘れていたことがある。「努力を重ね」ていた時期にその子は週にかなりの回数個別指導塾に通っている。ちなみにこれは年間で週百万円かかる。日本のサラリーマンの年収の単純な平均をとると4~500万円だそうだ。

 さて、これは本当に努力神話だろうか?

 

 ちなみに私事であるが、地方公立高校出身の私は浪人時代にはじめて東京の予備校に通って感じた“機会の不平等”さを鮮明に記憶している。

 

 日本にも中国にも家族、性別、出身地など生まれた瞬間に決まってしまうことはたくさんある。それは仕方のないことだ。では、それによってその後の人生が決まっているとしたらどうだろうか?あなたはどう思うだろう?

 大きな社会システムの中でのそのような“不公平”、それはあなたにとってどんな意味をもつだろうか?

 

 私達がこの分科会で議論するのは上記のような問いである。

 私達はこのテーマの真に興味深い具体例をいくつも考えているのだが、それを全て紹介するにはこの余白は狭すぎるので1つだけ紹介したいと思う。

 

 中国では出身戸籍によって北京大学の定員・合格ラインが異なっている。いうなれば北京大学は地域選抜である。一方で東京大学は日本全体から平等に入学者を選別する。つまり、東大生は日本代表といえる。一見すると日本のシステムの方が“平等”だ。だが、実際問題としてどうだろう?東大生の出身高校をみると明らかに地域格差が見て取れる。仮にこの地域格差が“機会の不平等”を意味するのならそれを土台とした“平等なシステム”は“平等”なのだろうか?

 むしろ北京大学のような地域代表制にしてみるのはどうだろう?では逆に北京大学東京大学のようなシステムにしてみるのはどうだろう?あなたはどう思うだろうか?

 

 IMFが今年発表した最近の報告書によれば中国はいまや「世界で最も不平等な国の一つ」になったようだ。一方で日本でも『21世紀の資本』が10万部を突破するなど格差に対する注目は極めて高い。

 戦後70周年、京論壇創設10周年のこの記念すべき年に両国が共通して抱える課題を議論し未来を築ける貴重な機会を存分に楽しんでいきたい。

 

 佐藤直樹(議長)

全体ミーティング報告

 みなさんこんにちは。京論壇2015副代表の陳嘉夫です。

 

 先日、歴代のOBOGの方々をお招きして毎年恒例の全体ミーティングが開催されました。

 

この全体ミーティングは、京論壇2015のメンバーがプレゼンテーションを行い、OBOGの方々からフィードバックをいただくことを通して、議論の課題を認識することを目的としています。議論のどこが弱点で、どう修正すれば面白くなるのか、について熱い議論が行われました。

 

 諸先輩方、お忙しいところにお集まりいただき本当にありがとうございました。

 

 さて、今回の全体ミーティングを通して、諸先輩方から何度も繰り返され、私の印象に特に残ったフレーズがあります。それは、「その議論のゴールは何か?」という問いです。

 実はこの問いは京論壇が常に抱えている問いでもあります。ゴール設定次第で議論の仕方は当然変わりますし、何よりその議論を行うことの「価値」が大きく異なります。私たちは20代そこそこの大学生に過ぎず、知識や議論力は各分野の専門家にかなうはずもなく、具体的な政策提言を行ったとしても、それは洗練されたものとは言えません。しかし、かといってお互いの価値観を交換し、2週間おしゃべりをして交流するだけならば、様々な労力をかけながらわざわざ中国まで赴く理由も薄くなります。

 

 「京論壇の目指すものは何か」「京論壇の価値は何か」

 

 この問いへの明確な解答はありません。それでも私たち京論壇は常に、東大生と北京大生が議論する意味、東京と北京を訪問する意味を考え、価値ある議論を目指さなければなりません。

 

今回の全体ミーティングで改めて京論壇の議論のむずかしさを実感しました。

 

 ミーティング終了後のメンバーの、疲れた表情を見せながらもすぐに議論を練り直そうとしていた姿が印象的でした。

拡散と追認のはざまで~平和分科会~

 「平和」の二文字が新聞やテレビを賑わせています。多くの日本人の心性に平和主義が根付いているのは、学術的に異論はあれ、実感としては否定しがたいところです。その反面で、日本をめぐる情勢は緊迫の度合を深め、平和主義を再定義する試みもなされているなど、わが国での「平和」は実体・概念の両面において揺れ動いていると言えるでしょう。今年最も耳目を集める「平和」について、日中両国の学生の認識を浮き彫りにすることこそが、当分科会の使命にほかなりません。

 

 上記の目的を達するため、6,7月の事前準備では、まず中国ならびにその国民に対して私たちが抱く不信の内実を、以下の三つの方法により明らかにしようと試みました。第一に、中国での反日感情が対中不信をもたらすという意見に基づいて、反日感情の根源を分析した学術文献をひも解きました。第二に、日中関係に暗い影を投げかけていると私たちが考える課題を列挙し、それらについて不信が生じるメカニズムを検討しました。第三に、中国に対し抱く漠然とした負の感情を言葉にし、どのような場合にその感情を感じるか内省しました。これらの方法により、北京大生にぶつけたい疑問を漏れなく洗い出すことに努め、次いでこれらを枠組に整理しようと試みました。

 

 ところが、議論の過程で二つの大きな課題に直面しました。

 一つは、「平和」という多面的で包括的な概念をいかに取り扱うか、という問題です。最狭義の、戦争の不在としての「平和」への具体的な道筋を論ずるべきか、不信を乗り越えた和解としての「平和」に的を絞って議論を深めるのか、はたまたガルトゥングのいう、構造的暴力の不在としての積極的平和にまで間口を広げて議論を展開するのか。何でも議論の対象にしうることと一貫性を失いやすいことは紙一重であり、テーマの広汎さゆえのジレンマがここに存在していると言えます。

 もう一つは、先人の発見の追認に終わるのではないか、という問題です。たとえば歴史認識・領土をめぐる問題は、学術研究のみならず当団体でも繰り返し扱われてきたテーマであります。これを再度議論することにどのような意義付けをすれば良いのでしょうか。2015年の平和分科会だからこそ出せる価値は何なのか、自問自答する日々が続いています。

 

 最後に強調したいのは、参加者全員がこのテーマを議論することに、高い好奇心と熱意と、そして誇りを感じているということです。「過去に目を背ける者は結局現在に対しても盲目となる」この意識が次第に参加者に浸透していることに、私は大きな満足を感じます。本番の議論に向け、一歩一歩精進してまいります。

 

文責:小野 顕(平和分科会議長)

サステナビリティ分科会紹介

皆さん初めまして。

サステナビリティ分科会議長の西村万祐と申します。

今回はサステナビリティ分科会についてご紹介させていただきたいと思います。

 

なぜ今「サステナビリティ」を議論するのか。

今日、環境保護が重要だという世界的なコンセンサスは形成されつつあります。しかし、環境保護に関し、人類にとって地球環境資源は有限なことから無限大の経済発展はあきらめなければならないというニュアンスが強く、経済的発展を望む途上国や経済成長論者の支持を得ることが出来なかったのです。これに対しサステナビリティ、すなわち「持続可能な発展」は「地球環境資源の有限性を明確に打ち出しながらも人類の発展は可能」という両立可能性を示した概念であるため、より広く受け入れられるようになりました。

つまり、サステナブルな社会は日中含む各国にとって目指すべき将来なのです。

この概念を出発点とし、日中の環境問題を取り上げサステナビリティとの関係を分析していきます。そして、将来展望として今後日中がサステナブルな社会を築いていくためにどのように協力できるかを様々なアクターごとに考えていくことがこの分科会の目的です。

世界的な環境対策に非常に大きな影響を及ぼすことができる中国。そのトップの学生は公害問題についてどう思っているのか。果たして中国は今でも「発展途上国」といえるのか。これから議論していくのが楽しみです。

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