京論壇2015ブログ

北京大学と東京大学の学生による国際学生討論団体・京論壇(きょうろんだん)の活動を報告するブログです

内省と想像を超えた先にあること:平和分科会報告

 

初めまして、平和分科会の野本圭一郎です。早くも最終報告会から1ヶ月以上経ってしまいましたが、報告会へご来場された方、改めて誠にありがとうございました。

京論壇終わって、少しはゆっくりできるかと思っていたら、終了後に後回ししていたことがテトリスのように次から次へと上から降ってきていて、全くゆっくり出来ない状況ですが、平和分科会の準備段階・北京セッション・東京セッションといったこの5か月通しての活動の報告を時系列順に「内省」と「想像」というキーワードをもとに報告したいと思います。

京論壇2015が発足し、活動がスタートしたのが5月下旬、そこからメンバーで週に1回程度集まって、議論したいことの確認、そして議論できるだけの知識を補うだけの勉強会、最後にそこから集められたトピックの体系化を行ってきました。その議論において、個人的に難しいなと感じた点は、北京大生側の考えがメールによって送られてくる質問素案からしか伝わってこないことです。今となっては北京大生と2週間、議論し、信頼関係を築けているのでこのような問題はないでしょうが、当時はまだ、素性も分からない「中国人」から送られてくるペーパーは何だか天の声のようで、私達を悩ませるものでした。

特に、悩ませたことの代表例としては北京大生側から送られてくるクエスチョンの中には私達の想像外のものがあるということです。例えば、二国間関係というトピックの中で、向こう側から送られてきた質問としてアメリカ合衆国に関するものがありました。というのも、私達の平和に関する議論において視野に入れていたのは当然、日中間の諸問題です。しかし、北京大側はその諸問題の中にアメリカという第三のアクターを入れて議論しようとしてきたのです。私達には当初、なぜアメリカが入るのか釈然としませんでした。そこで私達が行うことはそれに関する自らの認識を「内省」することから始めました。つまり、自分たちにとってアメリカをどう見ているのかをじっくり考えてみます。そしてその「内省」を踏まえて、相手がどう考えているかを「想像」し、中国から見て日本はアメリカの言いなりのように見えているのではないか…、というように。この想像というのはハッキリ言って、何の根拠もないものだから「妄想」に近いものといえるかもしれません。しかし、相手の価値観を見出すにはこの「妄想」を相手に伝え、その反応をうかがうことよって可能と私達は考え、事前の議論アウトラインに付け加えていくことを4か月の間、行ってきました。

北京セッションでは、現在と未来のパートについて話し合うということで、前のブログにも紹介させていただきましたが、国内平和・日中平和・国際平和の3つについて話させていただきました。

国際平和のトピックの中でISISという議題を北京大側が提案してきました。それについて東大側はISISについて日中間の学生で話す意義があるのかと議論になりました。 しかし、結局はこれについては先ほど言った、「内省」も「想像」も出来ずにそのまま残しておいて北京大生の意図をその場で聞こうということになりました。結果としては、北京大生は「平和について議論するとなると、常に対立してばかりだ、だからこのように協力できそうなトピックを選んだ」と答えてきて、私達の日中間の諸問題に終始していた視野の狭さが図らずも明らかにされる形となりました。

残りの2つのトピックについての主要な報告は同じメンバーの過去のブログ記事(http://jingforum2015.hatenablog.com/entry/2015/09/25/135017)があるので、私がそこで面白いと感じた所について、1つ紹介する程度にしたいと思います。

それは、北京大生の自国の政治体制に対する、根本的な信頼です。これは先ほど紹介したブログに詳細に書かれていたので、なぜ、私達が政治体制について取り上げ、そして、どのような結果を得ようとして議論を行い、どのような結果が出たかというプロセスについて書きたいと思います。まず、私達がこのトピックを取り上げた理由としては、中国の政治体制、中国共産党による統治体制についての東大側の不信があり、それに抜きにして日中間の不信の全貌を明らかには出来ないだろうという気持ちがあったということです。例としてはインターネットを初めとしたメディア検閲、民主運動家や少数民族への弾圧が報じられていること挙げられ得るでしょう。このような我々の認識と比較し北京大生が純粋にどう認識しているかという興味、そして彼らの自由民主的な社会への認識を明らかにしたいという気持ちがありました。

このトピックでまず、最初に北京大生から挙げた答えとして、私達は市民の教育が進まず貧しい国に住んでいる、彼らに選挙権を与えたら、思うがままに行動して、この社会がカオスになってしまう、そうならないために―「安定」のために―も今の政治体制は必要なんだというものでした。この最初の答えは本当に彼らの本音ではないという仮説が私たちの中にありました。というのも、この答えは東大側の事前準備の中で予想されていたもので、本当は自由で民主的な社会が良いと彼らも考えていると「妄想」していたからです。そして様々な質問を通して、彼らの本音を探ろうとしました。しかし、「安定」をキーワードにした答えは一昼夜繰り返され、時間はもう深夜、もう駄目だ、とりあえず、個人的に、なぜ、こうも「安定」が重要だと考えるのかという質問を繰り出しました。そして返ってきた答えは

  • 共産党だけが問題を解決できると、国内の様々な政治状況を見て実感した
  • 自由主義・民主主義も羨ましいと思うが、現状を考えると仕方ないと思う
  • 共産党がこれまでの成長を主導してきた

などなど…ハッキリ言って、そこまであまり代わり映えしないものでしたが、けれど彼らの表情を見ると、決して「政府」の考えを代弁していない「個人」の意思が見て取れるものでした。この表情に僕も違う価値観の存在を強く実感し、そしてその価値観を受け入れられないという自分の中の感情もまた強くありました。どうしてこのような価値観の違いが生まれたのだろうか?教育?環境?など自分の価値観に対する様々な背景への「内省」と「想像」が行われました。そして結局、その価値観の違いは公教育を超えたこれまで育った環境・背景の違いから生まれるのではないかという仮説が東大側の内部で提示されました。その中で自らの立場を相対化し、客観視できなかったことに対する「内省」と相手の環境に対する理解を進める姿勢がなかったことに対する「内省」が行われました。

 

 次に東京セッションでの話に移りましょう。東京セッションでは現在の不信の根底にある過去の話をしようということで、お互いの「歴史認識」と「謝罪問題(靖国問題を含む)」を話し合いました。そこでの詳しい概要も先のブログ(http://jingforum2015.hatenablog.com/entry/2015/10/28/104737)に譲るとして、自分なりに面白かった点を一点紹介したいと思います。

 個人的に面白いと感じた点は、お互いに過去の歴史的行為から相手国の国家イメージを作り上げて、それが不信の一因となっているということです。

 対中感情の不信の一因として「中華思想」、つまり歴史的に中国がアジア圏内の中で優越している思想があると「想像」し、それをぶつけてみたことについては北京セッション報告のブログでも取り上げました。そこでの結論としては、あまり長くは書きませんが、我々が想起しがちなアジア圏内における上下関係を意味する「冊封体制」とは異なる別の「中華思想」の概念を持っていたということでした。

 そして北京大生が我々と同じように対日不信の原因としてあった日本の国家イメージについて指摘してきた点が「武士道」でした。彼らは日中戦争における旧日本軍の様々な行為を武士道に起因していると分析し、さらには日本のアニメや漫画、映画などにおける特定のシーンや現代日本人の礼儀正しさにまで現在の日本人の持つ武士道とつなげて考えていたのです。ハッキリ言って、直感的に言わせてもらうと「そんなバカな~」といいたくなる話です。しかし、そのような話を彼らは本気で信じ、こちらにぶつけてきたのです。こちら側の「想像」の範囲外の話ですが、向こうが本気でぶつけてきたものである以上、こちらとしても「内省」して、自分たちに彼らの言う「武士道」があるかどうか考えました。確かに上下関係などはあるかもしれない…けれど、切腹などといった文化が現代日本に残っているものではありません。礼儀正しさなどといいますが、実際は高度経済成長期に様々な教育を通して身に付いたという話もあります。このような国民性は所詮浅いレベルでしか持っていないのではないかということで我々の「内省」は結論付け、それについて伝えると北京大生側も納得した表情をしていました。しかし、私としてはまだもやもやとしたものが残っているのです。日本人の国民性ってなんだ…?本当にそんなに浅いもので終わらせて良いのか…?セッション終わってからも疑問に残った僕は今頃になって新渡戸稲造の『武士道』を読み始めているのです。

 まぁ、この国家イメージと不信のつながりについては個人的にはまだまだ深められる余地もあり、自分で勉強すべきことなのではと考えています。しかし、一つ言える事としては、お互いのイメージを自らが受けた教育などによって決めつけているのではないかということです。相手のことを何も知らずに、ただ教育から学んだことを相手国の現状と繋げて、不信を抱くことは極めて独善的ではないでしょうか?このように結びつけられた不信は相手側も理解することが出来ず、極めて解決しがたいものとなってしまいます。そのような意味でもお互いの国の直接的なイメージをこのような交流を通して抱くべきかなと感じました。

 このプロセスは「内省」と「想像」の枠を超えた先にある「理解」の話です。セッション前の議論やセッション中の議論を通して、行ったことはこの3つの循環でした。相手のことを「理解」するためにまずは「想像」してぶつけてみる。そして出てきたものを自分たちで吸収する。そして、自分のことを伝えるためにしっかり「内省」しなければならない、その結果を返すことで相手は自分のことを「理解」することになる。お互いのことをこの3つのプロセスを通して「理解」することで東大側も北京大側も普通の友人関係とは違う深い信頼関係を築けたと思っています。そして、このような深い思考活動を行うことが出来たことに、京論壇の分科会の東大/北京大双方の仲間たち、ボードのみんな、他の分科会の仲間たちに大変感謝しています。本当に濃い2週間を過ごすことが出来、ありがとうございました。

 

野本圭一郎