京論壇2015ブログ

北京大学と東京大学の学生による国際学生討論団体・京論壇(きょうろんだん)の活動を報告するブログです

内省と想像を超えた先にあること:平和分科会報告

 

初めまして、平和分科会の野本圭一郎です。早くも最終報告会から1ヶ月以上経ってしまいましたが、報告会へご来場された方、改めて誠にありがとうございました。

京論壇終わって、少しはゆっくりできるかと思っていたら、終了後に後回ししていたことがテトリスのように次から次へと上から降ってきていて、全くゆっくり出来ない状況ですが、平和分科会の準備段階・北京セッション・東京セッションといったこの5か月通しての活動の報告を時系列順に「内省」と「想像」というキーワードをもとに報告したいと思います。

京論壇2015が発足し、活動がスタートしたのが5月下旬、そこからメンバーで週に1回程度集まって、議論したいことの確認、そして議論できるだけの知識を補うだけの勉強会、最後にそこから集められたトピックの体系化を行ってきました。その議論において、個人的に難しいなと感じた点は、北京大生側の考えがメールによって送られてくる質問素案からしか伝わってこないことです。今となっては北京大生と2週間、議論し、信頼関係を築けているのでこのような問題はないでしょうが、当時はまだ、素性も分からない「中国人」から送られてくるペーパーは何だか天の声のようで、私達を悩ませるものでした。

特に、悩ませたことの代表例としては北京大生側から送られてくるクエスチョンの中には私達の想像外のものがあるということです。例えば、二国間関係というトピックの中で、向こう側から送られてきた質問としてアメリカ合衆国に関するものがありました。というのも、私達の平和に関する議論において視野に入れていたのは当然、日中間の諸問題です。しかし、北京大側はその諸問題の中にアメリカという第三のアクターを入れて議論しようとしてきたのです。私達には当初、なぜアメリカが入るのか釈然としませんでした。そこで私達が行うことはそれに関する自らの認識を「内省」することから始めました。つまり、自分たちにとってアメリカをどう見ているのかをじっくり考えてみます。そしてその「内省」を踏まえて、相手がどう考えているかを「想像」し、中国から見て日本はアメリカの言いなりのように見えているのではないか…、というように。この想像というのはハッキリ言って、何の根拠もないものだから「妄想」に近いものといえるかもしれません。しかし、相手の価値観を見出すにはこの「妄想」を相手に伝え、その反応をうかがうことよって可能と私達は考え、事前の議論アウトラインに付け加えていくことを4か月の間、行ってきました。

北京セッションでは、現在と未来のパートについて話し合うということで、前のブログにも紹介させていただきましたが、国内平和・日中平和・国際平和の3つについて話させていただきました。

国際平和のトピックの中でISISという議題を北京大側が提案してきました。それについて東大側はISISについて日中間の学生で話す意義があるのかと議論になりました。 しかし、結局はこれについては先ほど言った、「内省」も「想像」も出来ずにそのまま残しておいて北京大生の意図をその場で聞こうということになりました。結果としては、北京大生は「平和について議論するとなると、常に対立してばかりだ、だからこのように協力できそうなトピックを選んだ」と答えてきて、私達の日中間の諸問題に終始していた視野の狭さが図らずも明らかにされる形となりました。

残りの2つのトピックについての主要な報告は同じメンバーの過去のブログ記事(http://jingforum2015.hatenablog.com/entry/2015/09/25/135017)があるので、私がそこで面白いと感じた所について、1つ紹介する程度にしたいと思います。

それは、北京大生の自国の政治体制に対する、根本的な信頼です。これは先ほど紹介したブログに詳細に書かれていたので、なぜ、私達が政治体制について取り上げ、そして、どのような結果を得ようとして議論を行い、どのような結果が出たかというプロセスについて書きたいと思います。まず、私達がこのトピックを取り上げた理由としては、中国の政治体制、中国共産党による統治体制についての東大側の不信があり、それに抜きにして日中間の不信の全貌を明らかには出来ないだろうという気持ちがあったということです。例としてはインターネットを初めとしたメディア検閲、民主運動家や少数民族への弾圧が報じられていること挙げられ得るでしょう。このような我々の認識と比較し北京大生が純粋にどう認識しているかという興味、そして彼らの自由民主的な社会への認識を明らかにしたいという気持ちがありました。

このトピックでまず、最初に北京大生から挙げた答えとして、私達は市民の教育が進まず貧しい国に住んでいる、彼らに選挙権を与えたら、思うがままに行動して、この社会がカオスになってしまう、そうならないために―「安定」のために―も今の政治体制は必要なんだというものでした。この最初の答えは本当に彼らの本音ではないという仮説が私たちの中にありました。というのも、この答えは東大側の事前準備の中で予想されていたもので、本当は自由で民主的な社会が良いと彼らも考えていると「妄想」していたからです。そして様々な質問を通して、彼らの本音を探ろうとしました。しかし、「安定」をキーワードにした答えは一昼夜繰り返され、時間はもう深夜、もう駄目だ、とりあえず、個人的に、なぜ、こうも「安定」が重要だと考えるのかという質問を繰り出しました。そして返ってきた答えは

  • 共産党だけが問題を解決できると、国内の様々な政治状況を見て実感した
  • 自由主義・民主主義も羨ましいと思うが、現状を考えると仕方ないと思う
  • 共産党がこれまでの成長を主導してきた

などなど…ハッキリ言って、そこまであまり代わり映えしないものでしたが、けれど彼らの表情を見ると、決して「政府」の考えを代弁していない「個人」の意思が見て取れるものでした。この表情に僕も違う価値観の存在を強く実感し、そしてその価値観を受け入れられないという自分の中の感情もまた強くありました。どうしてこのような価値観の違いが生まれたのだろうか?教育?環境?など自分の価値観に対する様々な背景への「内省」と「想像」が行われました。そして結局、その価値観の違いは公教育を超えたこれまで育った環境・背景の違いから生まれるのではないかという仮説が東大側の内部で提示されました。その中で自らの立場を相対化し、客観視できなかったことに対する「内省」と相手の環境に対する理解を進める姿勢がなかったことに対する「内省」が行われました。

 

 次に東京セッションでの話に移りましょう。東京セッションでは現在の不信の根底にある過去の話をしようということで、お互いの「歴史認識」と「謝罪問題(靖国問題を含む)」を話し合いました。そこでの詳しい概要も先のブログ(http://jingforum2015.hatenablog.com/entry/2015/10/28/104737)に譲るとして、自分なりに面白かった点を一点紹介したいと思います。

 個人的に面白いと感じた点は、お互いに過去の歴史的行為から相手国の国家イメージを作り上げて、それが不信の一因となっているということです。

 対中感情の不信の一因として「中華思想」、つまり歴史的に中国がアジア圏内の中で優越している思想があると「想像」し、それをぶつけてみたことについては北京セッション報告のブログでも取り上げました。そこでの結論としては、あまり長くは書きませんが、我々が想起しがちなアジア圏内における上下関係を意味する「冊封体制」とは異なる別の「中華思想」の概念を持っていたということでした。

 そして北京大生が我々と同じように対日不信の原因としてあった日本の国家イメージについて指摘してきた点が「武士道」でした。彼らは日中戦争における旧日本軍の様々な行為を武士道に起因していると分析し、さらには日本のアニメや漫画、映画などにおける特定のシーンや現代日本人の礼儀正しさにまで現在の日本人の持つ武士道とつなげて考えていたのです。ハッキリ言って、直感的に言わせてもらうと「そんなバカな~」といいたくなる話です。しかし、そのような話を彼らは本気で信じ、こちらにぶつけてきたのです。こちら側の「想像」の範囲外の話ですが、向こうが本気でぶつけてきたものである以上、こちらとしても「内省」して、自分たちに彼らの言う「武士道」があるかどうか考えました。確かに上下関係などはあるかもしれない…けれど、切腹などといった文化が現代日本に残っているものではありません。礼儀正しさなどといいますが、実際は高度経済成長期に様々な教育を通して身に付いたという話もあります。このような国民性は所詮浅いレベルでしか持っていないのではないかということで我々の「内省」は結論付け、それについて伝えると北京大生側も納得した表情をしていました。しかし、私としてはまだもやもやとしたものが残っているのです。日本人の国民性ってなんだ…?本当にそんなに浅いもので終わらせて良いのか…?セッション終わってからも疑問に残った僕は今頃になって新渡戸稲造の『武士道』を読み始めているのです。

 まぁ、この国家イメージと不信のつながりについては個人的にはまだまだ深められる余地もあり、自分で勉強すべきことなのではと考えています。しかし、一つ言える事としては、お互いのイメージを自らが受けた教育などによって決めつけているのではないかということです。相手のことを何も知らずに、ただ教育から学んだことを相手国の現状と繋げて、不信を抱くことは極めて独善的ではないでしょうか?このように結びつけられた不信は相手側も理解することが出来ず、極めて解決しがたいものとなってしまいます。そのような意味でもお互いの国の直接的なイメージをこのような交流を通して抱くべきかなと感じました。

 このプロセスは「内省」と「想像」の枠を超えた先にある「理解」の話です。セッション前の議論やセッション中の議論を通して、行ったことはこの3つの循環でした。相手のことを「理解」するためにまずは「想像」してぶつけてみる。そして出てきたものを自分たちで吸収する。そして、自分のことを伝えるためにしっかり「内省」しなければならない、その結果を返すことで相手は自分のことを「理解」することになる。お互いのことをこの3つのプロセスを通して「理解」することで東大側も北京大側も普通の友人関係とは違う深い信頼関係を築けたと思っています。そして、このような深い思考活動を行うことが出来たことに、京論壇の分科会の東大/北京大双方の仲間たち、ボードのみんな、他の分科会の仲間たちに大変感謝しています。本当に濃い2週間を過ごすことが出来、ありがとうございました。

 

野本圭一郎

京論壇2015をふりかえって

はじめまして。サステナビリティ分科会の田辺です。

サステナビリティ分科会の議論の内容についてはすでに幅上さんと章さんがそれぞれブログ上でまとめてくださり、今後報告書でも総括することを予定しております。そこで今回の投稿では京論壇全体を通して得られた感想や疑問を3点にわけて書いていきたいと思います。何か興味深い点があれば幸いです。

                                                                                   

  • 北京大生と議論をして①:価値観の議論について

北京大生はサステナビリティをどのように定義するのか、経済発展と環境が矛盾してしまう場合にどのようなバランスをとるべきだと考えるのか、PM2.5をはじめとする公害問題をどう思っているのか、環境問題解決にむけた国際的な努力への中国の関与をどう評価しているのか。サステナビリティ分科会の東大チームは、サステナビリティに関するこうした認識や価値観について東大チームと北京大チームとの間でどのような違いが見られるかに関心を抱き、こうした点を明らかにすることを目指しました。この議論の目的としては大きく二つのことが目指されていたと個人的には考えています。

ひとつは議論を通じて自らの考えを相対化することです。自分とは違う考えをもつ人と議論を交わすことで自分の考えがどういった由来や根拠をもつのかを知ることは大切な作業だと思います。たとえば、私たちの分科会では議論をする中で明らかになったチーム間、そしてチーム内の意見の違いに着目し、各人が考える環境保護と経済成長のあるべきバランスは実は自分の育った地域がどれだけ経済成長の恩恵を受けてきたかの度合いによるという仮説にたどり着きました。また、どれだけ国際協力に応じる責任があるのかを判断する際に重視するファクターは東大チームの中でも全く異なっていることが明らかになりました。こうした気づきは、自分があるものを大切だと思うのはなぜか、またその違いは本当に日中の違いに由来するのかという問題に答えるもので、問題を単純に日中の根本的な差違のようなものに帰着させないという意味でとても意味のある発見だと思います。

一方で、北京大生が関心を抱いていた実践的な解決策を東大チームは自分たちの問題意識と十分に結びつけられなかった点は反省すべき点だと感じています。というのも、そもそも環境問題に関し、実践的な解決策を議論することを重視するのかあるいは「認識」や「価値観」の議論を重視するのかという点はそれ自体重要な意見の相違であるのにも関わらず、私たちの分科会ではこの論点を見逃してしまったためです。技術的なこと、あまりに専門的なことは議論しないとした方針自体は間違っていなかったと思いますが、価値観や認識について議論するための論点をいわゆる実践的な話題から分離して想定したため、実践性を求める考えの裏にある価値判断やその由来にまで到達できなかったのだと思います。

認識や価値観について議論をする二つ目の目的として「同じものを目指さなければ目標を達成することはできないから」という、より踏み込んだ理由を考えることもできます。つまり、サステナブルな社会という目標達成のために主観的なレベルの違いを統一することを視野に入れながら認識や価値観についての議論をするということです。もちろん協力するうえで何らかの合意や共通の理解が必要であるという意味ではこの考えに一理あります。しかし、どういった主観上の違いがサステナブルな社会の実現をどの程度妨げているといえるのかという点を十分に明らかにできなかった以上、主観上の違いを全て是正しなければいけないものだとはどうも思えません。また、サステナビリティ実現のためにどの程度個人の主観に立ち入っていいのでしょうか。統一されるべき事柄とそうでない事柄はどう線引きするべきか、どういった手続きにそって決めていくことが公平なのか。たとえば今回歴史認識を扱った平和分科会であれば相互の誤解や悪感情は基本的に是正される必要のあるものと考えられるのに対して、サステナビリティの場合こうした問いには即答できません。したがってこのことを日中で議論することに大きな意味があったと思うのですが、今回は時間の制約で十分に議論できませんでした。

 

  • 北京大生と議論をして②:コミュニケーション

サステナビリティを実現する必要があるという点、そして中国もまた気候変動に対して一定の責任を負うべきであると考える点で分科会のメンバー全員が合意をしたというと、「なんと楽な分科会か」という印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし実際は思いのほか議論が難航しました。国際的な枠組みをつくる際に参加国の包括性と枠組みの実効性のどちらをまず重視するのかという論点のほか、そもそも”Responsibility”や”Obligation”といった言葉の意味やニュアンスが微妙に異なることから混乱が生じ、共同して議論を組み立てることに東京セッション初日のかなりの時間が費やされてしまいました。これはかなり消耗する作業で、普段話せない北京大生と京論壇で議論をしているのだという意識があったからこそメンバー達も最後まで議論に参加し続けられた面も実際あったと思います。たとえ自分と考え方が近い場合であっても、議論に使う言葉の意味が微妙に違うため対話は難しいことに変わりはなく、根気のよさが要求されました。

そんなこんだで考え方が似ている割に消耗した経験の後で日常を振り返ると、自分は日本人と日本語でコミュニケーションしているときは東京セッションで費やしたほどのエネルギーを使っているだろうかという思いがふと頭をよぎります。振り返ってみると、実際にいろいろな人と会ってそう結論づけるというよりも、なぜか日本人(あるいは東大生)は同質的だとまず決めてしまっていたように思います。

 

  • 北京大生を見ていて:現状認識と今後

サステナ分科会の北京大生を見ていて一つ印象的だったことに、自国で深刻な環境問題を抱えながらも気候変動を解決するためにどのような国際協力が望ましいかという点に強い関心を抱いていたことがあります。特に北京大生が内向きであると思っていたわけではありませんが、平和分科会ではテーマの一つとしてISISを扱いたいという予想外の意見がでたこともあわさってか、中国の大学生の一部は国際的な協力のあり方に強い関心を抱いているのだなという印象を受けました。

日本のメディアでは中国の学生に関する情報は「それに比べて日本の若者は」という嘆きや否定的な若者論とともに受け止められることがしばしばあります。

では自分は一体誰で、現状と今後をどう理解して行動するべきなのだろう。北京大生を見ていてあらためてこの疑問に直面しました。自分が日本人であることを過剰に意識して中国人に対抗心を燃やすのは幼い気がします。一方で、東アジアの人間の一人としてただ喜ぶには時期尚早で直感的に無理があるように思えます。正直、まだはっきりとはわかりません。

京論壇で2週間北京大生と議論をした今、私は中国の優秀な人たちが今後さらに活躍する世界はこれまで以上に面白いものだろうとひとまず単純に捉えています。より多様な人間の集団のほうが同質的な集団よりも面白いと感じられるのであればそう考えることはできると思います。それに実際、2週間彼らと議論をしていてとても楽しかった!

 

京論壇での活動を振り返ると、何か結論や教訓を得られたというよりも模索すべきことがいくつか現れてきたというほうが正確な気がします。そのためこの文章も煮え切らないままになってしまいましたが、ここは結論を急ぐのではなく、今後模索するべきことをひとまず明らかにしてこの文章を終えたいと思います。

 

最後になりましたが、京論壇2015の活動を応援していただいた全ての方に厚く御礼申し上げます。

 

文責:田辺 啓悟

 

平和分科会 東京セッション報告

「中国」と聞いて皆さんは何を思い浮かべるだろうか。

 

万里の長城や中華料理を想像した読者もいるだろう。だが同時に、情報統制共産党一党独裁体制、はたまた靖国問題歴史認識といった日中関係に関する事柄を思い浮かべた人もいるかも知れない。

あくまで私個人の印象ではあるが、「中国」という国に対して何かしら負のイメージを持つ日本人が多いように感じる。何故だろうか。

 

この負のイメージ、モヤモヤした不信の原因を紐解く事が、平和分科会の一つの目的であった。

今回は東京セッションでの議論を中心にご紹介する。

 

東京セッションは主に歴史認識に纏わる議論であった。

まずは、日中戦争歴史観について。

 

おっと、本論に急ぐ前に少し考えたいことがある。この導入、果たして正しいのだろうか。私が北京大生の一人であると仮定しよう。恐らく書き出しはこうなる―――

 

「まずは、抗日戦争期の歴史観について。」

 

この違いの意味する事はもうお気づきだと思う。中国が先の大戦の相手として第一に思い浮かべる国は日本だ。日本の教科書では日中戦争として知られているこの戦争は、中国の教科書で明確に「日本の侵略」と説明されている。 お互いに自分の国の教科書を見せ合ったところ、北京大生から次のような指摘を受けた。

 

「日本の教科書はどうして侵略という言葉を用いずに事実を曖昧にしているのか」

 

この問いに対する議論で明らかになったのは、東大側と北京側での、”侵略”という単語の重要性の違いである。中国では、「日本が中国を侵略した」という歴史的事実の伝承が重要な意義を持つらしい。一方で、東大側からは、侵略という単語の使用有無で、若い世代の歴史観に重大な影響を及ぼすようには思えないとの意見が出た。勿論、「戦争」を「侵略」と変えることそのものには反対する意見もあったが、言葉そのものに対するこだわりは、明らかに北京側の方が強かった。

 

東大側から中国の教科書に対する指摘としてあがったのは、「中国の詩的表現にすぎる満州事変の記述は歴史教育として如何なものか」、というものだ。事実、中国の教科書では満州事変の説明は、詩的で悲劇的な文体でなされている。「満天の星のもと、兵士たちは従軍してゆき~」といった調子で数行が続く。北京側もこの事実は認めており、次のような話をしてくれた。

「日本に過度に焦点を当てた歴史教育の在り方には、変化の兆しがある。中国で日本文化が浸透し、抗日戦争の歴史ばかり教えることで国内をまとめることの効果が薄くなっている。現在においては、より客観的な歴史観を求める動きがある」。

更には、以下のような説明も受けた。

「中国が発展するにつれてこのような教育も減っていくだろうし、政府は国を纏める別の方法を模索している」。

 

最後の一行をもう一度読み直して頂きたい。この意味する処は、今の中国が日本を敵に据えた愛国教育を、国の発展に利用しているということではないのだろうか。

 

意外にも、北京側はこの推測をあっさりと受入れ、こちらを拍子抜けさせた。

「世界一の人口と多様な民族から成る中国は現在発展途上にあり、中国が強くなるためには国内の”安定”が最優先なのだ。中国人民の統一の為に教育を利用することは避けられない」。

 

実は、「安定 (stability)」を重視し、此方の疑問に対する理由とする彼らの姿勢は、二週間の議論を通して一貫して見受けられた。正直に申し上げると、東大側はこの「安定のため」という言葉の万能さに辟易していた節もあった。歴史教科書の議論だけでなく、中国における情報統制や人権活動家の逮捕などについても、この「安定」が真っ先に彼らの説明として挙げられていたのである。

 

議論をしていく中で分かった事は、中国では実際問題として日本人には想像も付かない複雑な政治的社会的状況があり、共産党主導の体制への信頼は相当確固たるものであることだ。この辺りの説明については北京セッション報告に詳細に記載されているので是非読んで頂きたい。

 

もう二つほど、議論の様子をお伝えしたい。

次は歴史認識において衝撃的だった中国の日本認識についてご紹介する。

 

日本が再び戦争を起こす可能性はあるのだろうか。この平和な国に生きる日本人の肌感覚として、その実現可能性は限りなくゼロに近いと思う。だが、中国人の感覚は少し違うらしい。中国人は日本が再び軍国主義に向かう可能性が確かに存在し、それを不安、時として恐怖だと感じているらしい。

北京大生の口からこぼれたのは、日本人の武士道精神が残虐性や戦争を誘発しやすい国民性を反映しているというものだ。北京大生の指摘によると、武士の腹切りは命を粗末にする行いであり、武士の忍耐精神がある時点で発散されると、大量虐殺も厭わない残虐性を発揮するという。そしてその武士の精神は今の日本人にも脈々と受け継がれている、とも言う。

 

「日本の国民性が軍国主義に陥りやすい性質を有している。だから日本が再び戦争を起こすことを想像することができ、恐怖を感じる―――。」

 

教科書の記述や、中国政府メディアの報道から、日本に対する根本的な悪い印象が中国人の中にはあると、北京側は説明してくれた。これらのバイアスのかかった報道は日本にも無いとは言い切れないが、その影響の大きさに驚きを隠せなかった。日本人も、自分の中国観がメディアによって形成されている可能性に目を向ける必要があるのかもしれない。

 

最後にご紹介するのは、戦争についての謝罪と反省についての議論。

 

戦後謝罪問題が日中関係の大きな障壁である事は、誰も否定しないだろう。

戦後70年を迎えた今年、安倍談話が公表された。今回の談話には、先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を負わせてはならない、との内容が初めて盛り込まれた。議論の中でもこの一節が取り上げられた。戦争の責任を忘れても良いのか、という北京側に対する東大側の主張は、謝罪は幾度となく繰り返した、日本は戦争を深く反省し平和を今後も第一に尊重する、私達の謝罪を受け止めてほしい、というものであった。北京側の反論として上がったのは、談話での謝罪があっても、教科書の記述や靖国参拝等のその後の国内的対応から、真摯に戦争を反省しているようには思えない、という指摘だ。

 

この議論の応酬の中で分かったのは、彼らが望んでいるものが、謝罪よりも反省に近いものであることだ。先の戦争への十分な反省意思と、それを裏付ける物理的事実。この一致こそ、中国が日本に求めている態度らしい。そして、今の日本は行動が不十分だと。

何故そこまで日本に要求するのか。この問いに対する答え、実は、既に紹介した議論の中で暗示されている。

 

日本が再び軍国主義化するのでは、というぼんやりした印象である。

 

具体的かつ容易に判断出来る日本側の行動が確認されない限り、この不信は拭えない、という北京大生の主張は揺るがなかった。日本に求められる具体的政策や提案として、靖国神社に首相が公式であれ私的であれ参拝を行わない(私的であっても首相という立場上、日本国民を代表した公的な人物であるというのが彼らの主張)、教科書記述を「侵略」に改める、などがあがった。

 

どうして、日本が常に先に行動を求められるのだろうか。

 

「中国では政府の影響力が強く、政府が変わらなければ、国民の反日感情も変わらない。そして、日本が積極的な行動を起こさない限り、中国政府は絶対に態度を変えないだろう。」

これら北京大生が提示した説明は何処か全てを政府に任せているような印象を筆者に与え、解消し切れない蟠りを残している。この蟠りの払拭は今後の課題として、考えていきたいと思う。

 

 

さて、そろそろ本稿を締めくくる。ここまで読んで頂いた読者の皆さんには感謝の意を表したい。

日本と中国の間にある溝を埋めること、溝の原因を探し出すことは、短い期間の議論で完結するような簡単なものではない。それでも、多くの若者が議論し合い、そこで得たものを共有してくことには、長期的な視点に立てば意味を持つかもしれない。

私たちが議論し合い、理解しあった成果が、今後の日中関係改善に資することを祈って、この報告書の締めくくりとする。

 

文責:平和分科会 磯野凪沙

 

(編注:以上の内容は個人の意見であり、弊団体を代表するものではありません。)

東京セッション報告:サステナビリティ分科会

こんにちは。サステナビリティ分科会の章雅涵です。

今回の記事では、東京セッションのまとめを報告させていただきます。

 

はじめに、「サステナビリティ」という単語と概念の定義を説明させていただきます。私たちの分科会では、この単語の定義を議論を通してこのように決めました。

---To develop and utilize the resources in a manner that will preserve the nature and people’s health, and at the same time, will not threaten the living and the development of the next generation.

つまり、自然と人間の健康を損なわない程度で資源を使用する上、次世代の生存と発展に悪影響を与えないような開発や発展している状態を、「サステナビリティ」な状態と呼ぶことにしました。これはかつての国際会議で決められたものと同じ趣旨です。

 

 

このサステナビリティというゴールに向けて、国際社会は様々な取り組みをしてきました。一番象徴的なのがCO2の削減量でしょう。

 

さて、ここでいきなり質問をしたいと思います。

よりサステナブルな世界を目指すために、CO2の削減量について、たとえばフィリピンと日本であれば、どちらの国がより多く負担すべきだと思いますか?

 

おそらく多くの人は「日本」と答えると思います。

理由はいろいろあるでしょうが、ほとんどの人は、日本が先進国だから、もしくは日本のほうがCO2をより多く排出してきたから、日本のほうのGDPが高いから、と答えるのではないでしょうか。

 

 

では、日本とドイツでしたらどうでしょう。

 

ちょっと難しいですね…。どちらも工業大国であり、先進国です。GDPも大差ないですね。引き分けといったところでしょうか。

 

 

最後に、中国と日本でしたら、どちらを選びますか?

答えは、しばらくみなさんの心の中にしまっておいてください笑

 

 

さて東京セッションのまとめの報告に戻ります。

私たちサステナビリティ分科会は、東京セッション中に

  • 世界全体がよりサステナブルな社会をつくることに向けての協力の方法
  • よりサステナブルな社会をつくるための、それぞれの国の取り組み

の二つの議題についてディスカッションをしました。

 

 

議論の中で、私たちもさきほどみなさんに投げかけた質問に遭遇しました。

そこで、世界全体がサステナブルな社会になるための各々の国の貢献量を、何によって決めるのかについて考えました。気候変動や資源枯渇などの問題を引き起こしたのは誰の責任だったのかをまず考えた際、私たちは汚染者負担の原則と、受益者負担の原則の二つの原則に則って、貢献量を算出する基準を決めることにしました。汚染者負担の原則とは、今まで地球に多くの汚染物質を出した国ほど多く負担するという原則であり、受益者負担の原則とは、地球を汚染したことを引き換えに得られた利益が大きいほど多く負担するという原則です。

 

従って、まず汚染者負担の原則で基準を考えた時、CO2の排出量を考慮に入れました。国によってCO2の排出量のピークが大きく異なるので、近年の排出量と近現代全体の総和量の二つの基準をまず置きました。続いて受益者負担の原則で考えた時、絶対的な基準ではないが、目安としてGDPは国際社会でも多く用いられているので、GDPおよび一人当たりのGDPの二つの基準を置きました。しかし、例えばアメリカの工場がタイ国内で生産をする場合、工場の売り上げはタイのGDPに算入されます。しかし利益を得るのはアメリカの会社なので、GDPだけで判断するのは少し不公平に感じるのも無理はないでしょう。このように工場の売り上げをアメリカのほうに算入する値を表すのが「GNP」です。これも一つの基準になると考えました。最後に、高度な科学技術を持っている国はそれを使うとより容易にCO2の削減できるのではないかと考えました。また、今まで取り組んできた環境保護の実績も考慮に入れるべきという意見もあったので、上の5つの基準に加え、「技術能力」と「環境への優しさ」の二つの基準も加えました。

 

これらの7つの基準のうち、サステナブルな社会に向けて、ある国がどの程度貢献する義務や責任があるのかを考えるのに、どの基準をより重視したらよいかについての意見を交換しました。

 

すると答えはこのようになりました:

 

f:id:jingforum2015:20151018102508p:plain

  • PKU side = 北京大生5人の結果
  • UT side = 東大生5人の結果
  • 6つの基準のうち、最も重視する2つの基準が「high」、最も重視しなくてよい2つの基準が「low」になっています。

 

みなさんは、何を基準にしてさきほど私が投げかけた質問に答えたでしょうか。

このように、一人一人の基準でも違うのですから、世界約190ヶ国で一つの合意に達するのは非常に困難なことだとより感じることができるでしょう。また、国によって状況も変わりますので、どの基準でどの国に当てはまればいいのかについても、十分に考慮した上でしかCO2の削減量は決められないことも納得しました。

 

 

 

ここでもう一つ、東京セッションで気づいたことをお話ししたいと思います。

 

私たち東大生は、各々「中国は発展途上国と言えるのか」「中国の果たすべき責任と貢献はどれくらいだと定義するか」「どこまで発展したら、サステナビリティなどの国際協力に積極的に携わるべきなのか」などの疑問を持って東京セッションに臨みました。

 

私たちの想定していた北京大生の答えは、「中国はまだ一人あたりのGDPが低く、また、貧困問題も解決されていないので、国際社会ではさほどの責任はない、もしくは国際協力に積極的に携わらなくてもよい」といったものでした。

 

しかし北京大生の答えや考えはまったく逆でした。

中国は発展途上国だけれども、世界全体がサステナビリティをゴールにするならば、どの国もそれなりの責任があり、それなりの義務を果たすべきだと答えました。また、国際的なゴールに向ける国際協力でしたら、「先進国」と「発展途上国」で分ける考え方をするより、各々の状況に合わせて協力体制を整えるべきではないかと反論されました。

 

私は中国生まれで日本育ちの中国人です。

それでも私は日本に長年住んでいるためか、中国はまったく国際貢献に協力していないのではないかと錯覚していました。中国の最近のGDPの伸びは著しいもので、そこばかり海外のメディアも注目していたからでしょうか。GDPが世界二位になりながらも発展途上国のまま。つまり国全体で豊かになってきているのに、世界への貢献度合いは日本よりも少ないことにある種の不平を抱いていました。

しかし実際のところ、中国は今年20億ドルを世界最貧困国に援助し、2030年には援助額を120億ドルに引き上げる見通しも発表しました。また、中国ではサステナビリティに取り組む企業が近年急増しているというデータもあります。

 

もちろん、これを中国の政治戦略とみなすのかどうかは読者の皆様に任せます。

 

しかし、北京大生と議論して中国の取り組みについて知らされた時、今までの自分たちは、どうして「先進国」と「途上国」というカテゴリーの中で物事をうまく抑えようとしていたのか逆に不思議になりました。中国は自分たちを途上国だと主張しながら、他の国を援助しているのは一見理解しがたいものですが、逆に発展途上国だから他の国を援助できない理屈もどこにもありません。

 

もちろん例えばCO2の排出量を決める時に、先進国と途上国というカテゴリーで考えたほうが便宜的でしょうが、だからといって、途上国は自由にCO2を排出してよいというわけでもありません。それぞれの国が自粛をしたり、犠牲を払ったり、自国に最も適している協力の仕方をすべきだと、改めて思いました。

 

 

サステナビリティを始めとする多くの国際協力は、先進国だけが頑張ればよいこともでもありません。絶対的な基準を設けて物事を決めればいいわけでもありません。

柔軟な思考力で複雑な問題に対応していける必要性、これは「当たり前」すぎることでありながらも、普段生活しているとよく忘れてしまうことでもあるのではないでしょうか。

 

 

京論壇の議論に参加して、北京大生と価値観とぶつけ合うことで新しい視点が得られただけではなく、参加者一人一人、改めて自分の中の今まで忘れられた「当たり前」を喚起することもできたのではないでしょうか。私たち京論壇で得られた学びも、まとめも、所詮、よくよく考えたら「当たり前」のことばかりです。しかし、各々の「当たり前」に気づくことこそが、日中だけでなく様々な二国間関係を構築するのに最も難しいものであり、最も肝要なものでもあるのではないでしょうか。

 

 

最後に、東京セッションのフィールドワークでは、スマートシティである柏市の散策と柏の葉スマートシティミュージアムの見学をしました。ご協力してくださった柏市とスマートシティミュージアムの皆さまに心より感謝申し上げます。

 

 

 

文責:サステナビリティ分科会・章雅涵

平和分科会 北京セッション報告

「中国」と聞くと、なんとなく抱くもやもや。

この形容しがたい、しかしどこかネガティブな感覚は、日本人の多くが一度は経験したことがあるのではないだろうか。

その原因は、頻繁に取り沙汰される日中間の外交問題だったり、相手側に堅固に存在する反日感情だったり、はたまた日常的に見るようになった中国人観光客の公共における行為であったりするかもしれない。しかしどれも漠然としっくりきてしまうからこそ、改めてそれら原因を突き詰めて考え、自分に対し納得のいく説明をしておくことは怠りがちだ。そして説明のつかないネガティブな思いは、消えることなく残存し続けては、中国に関する情報が与えられるたび無意識のうちにネガティブバイアスをかけることを可能にする。一方で中国人の側にも、日本に対する反感はもちろん存在する。

北京セッションで私たちが目指したのは、「これら相互不信が発生するメカニズムを、自分たちの感覚や経験に正直に解明すること」だった。既存の学術理論や外交政策を振りかざし合うだけでは、自分たちの日々の感覚から乖離してしまう。地に足のついた実感ベースの意見の応酬の中で、互いの行動の背景にどういう価値観があるのか、その価値観の相違がどのようにして不信と翻訳されてしまっているのか、をあぶり出すことこそが狙いだった。

全発見を並べ連ねるのも能がないので、ここでは私の独断と偏見に基づく取捨選択により、暫定版最も面白かった発見をおすそわけすることとする。過度な一般化は避けたいので、あくまでこれらは北京大生と東大生の議論に基づく示唆として、「そういう考えもありね〜」的なスタンスで読んで頂きたい。

 

それは、中国人の価値観の中心に存在する中華思想について。

世界史で古代中国を習うと出てくる、中華思想。古代中国の学習という文脈で習うときには、当時の民族的優劣意識とかが絡まってきてしまうのだが、今回考えたいのはもっとずっと広義の「チャイナ・アズ・ナンバーワン」という意識のことである。

近年の経済的発展を背景に国際社会における中国の存在感が高まっていることは、誰しも認める事実だろう。しかし、中国が主導的役割を果たそうとすることは何かと、中国を脅威とする論調を生み出しやすい。加えて、領土問題をめぐる行動などは周辺諸国をはじめとする国際社会に、中国はルールを守らない、 独善的で拡張主義的だ、という意識をも与える。

批判の妥当性・不当性はいったん脇において、なぜ中国がこうした行動をとろうとするのか、中国の根底にある行動原理は何か、ということを考えてみたとき浮かび上がってくるのが、未だ中国人の中に根付く広義の中華思想なのである。

多かれ少なかれ、どの国も自国文化にはプライドがあるし、できるものなら力ある国になりたいと思うものだろう。日本だって、新旧問わず自国文化のユニークネスには相当プライドを持っている方だと思うし、トヨタソニーみたいな強い会社が再び日本経済をブイブイ言わせてほしい、あるいは、国連安保理の常任理事国になれたらいいのに、などという希望を持たないと言ったら嘘になる。しかし、中国のそうした思いと自負は、日本のそれとはまた少し別格なものであるようだ。彼らの中には未だに、唐だとか清だとかいう世界的強盛を誇った王朝像が、回帰すべき自国像として息づいている(理想の中国像として唐が真っ先に挙がった時は思わず、「え、それ真面目に言ってるんですか」と東大側は目を丸くした)。そして自国の文化や価値観へのプライドは、みんな違ってみんな良いという金子みすゞ的なオンリーワンマインドというよりも、自分たちの在り方こそ素晴らしいというナンバーワンマインドに基づいているらしかった。だからこそ、容易に欧米の価値観に迎合したいとは思わないし、なんなら彼らの方がこちらのやり方・考え方を尊重すべきだという考えに繋がる。これは、他諸国の文化に比した優位性というよりも独自性にプライドを持つ日本、国際社会における唯一のリーダーというよりもリーダーの一人であれば満足する日本とは、かなり異なる思考の前提であると思う。

北京大側と話していると、本来この文脈での中華思想は、いわゆる拡張主義だとか帝国主義などという実力行使による他の圧倒ということでは全くなくて、国として尊敬され牽引者として認められるということに主眼があるということ、また彼らが自国文化の偉大さを純粋に愛しているのだということがよく分かった。しかし一方で、現在の国際秩序の中で自分たちの在り方を通すためには、欧米が構築してきた秩序や他国の在り方といったものを受け入れず自らを押し付ける、というのでは上手く行かないのも事実だろう。あるいは、彼らに実力で他を圧する気がなくとも客観的にはそう見えるような場合があるということを彼ら自身が認識し、誤解が生じないように現状秩序の下での説明責任を果たしていくことが得策の場合もあるはずだ。

中国人の中に無意識にも根付く中華思想の本来の姿を日本人の東大生側が理解して、中国の拡大志向を好戦性と短絡的に結びつけないこと。一方で北京大側に対し、理想と現実の不一致が、主観的自国観と客観的中国観の乖離に繋がっていると指摘すること。これらは、両者間で互いの見解を臆することなく述べ合ったからこそ得られた収穫である。

 

上記の中華思想に関連して述べたい発見があと二つあるので、お付き合い頂きたい。

一つは、東大側が日本人として抱いていた中国へのライバル意識を、北京大側は日本に対して持っていなかったということ。彼らの論理は単純明快で、「あまりに国として違うから」。しかし正直なところ、これは私にとってかなり拍子抜けというかショックだった。

読者の皆さんが中国に対してどういう意識を持っているかは分からないが、個人的には、日本と中国は東・東南アジアの牽引役として国力や発言力を争っているという感覚があり、それはライバル心に近いものだった。そして中国人の中にも同様に、日本に追いつけ追い越せという感覚が存在し、歴史問題のような特定の問題を抜きにしても反日感情の消えない理由はそこにあるのだと思っていた。

しかし北京大生曰く、日本と中国は地理的にも民族構成的にも政治体制的にも全く違う。確かに近年の中国の台頭でGDPなど両者が競り合う機会は増えたが、本来日本と中国は比較の対象になれないと思う。そして問われた——日本人の心の中に、中国の台頭という客観的事実を受け入れる用意はあると思うか?

悪気なく突きつけられて初めて、私は自分の中にあったのが、ライバル心というよりはむしろ嫉妬心であることを認めざるを得なかった。国としての根本的相違を前提とし、経済や国際的発言力において手法を違えつつ切磋琢磨することを目的とするよりも、そうした相違は度外視してあらゆる側面における漠然とした優劣比較に固執していたように思う。また、北京大側が日本の国際社会での行動を基本的にアメリカの意向と結びつけて考えていると知ったことは、日本という国の実力や立ち位置がそもそも客観的にはどう見られているかということを私に自問させた。

しかし一方で、そうはいっても中国人の日本への感情の中に、歴史問題などを抜きにしても残る何かしら複雑なものがあることもまた、真実であるように思われる。それがライバル心でも嫉妬心でもないとしたら、この「長年のお隣さんに対する奇妙な敵意」とは何なのか、それを紐解くのが今後の個人的課題だ。

 

発見のもう一つは、中国人として北京大側が持つ、政府への根本的信頼である。

中国と日本では、ざっくり言えば権威主義と民主主義という政治体制の異なりがある。東大側としては、民主主義の立場からすると不信の原因ともなりうる、権威主義における意思決定の不透明さや大衆操作性について北京大生がどう捉えているのだろうという疑問があった。蓋を開けてみると、平和分科会の北京大メンバーはかなり開明的で、民主主義の意思決定過程の価値そのものは認める声も多かった。しかしそれはあくまで理論上の好ましさであって、それを中国に適用することが中国にとって好ましいかということはまた別物であった。北京大側による、自国政治体制の最終的擁護。想定内ではあったが、これを自分の中でどう消化しようかと模索する中で、次のような考えに落ち着いた。

頭ではかねてから分かっていたが、今回北京大生と話したことで一層現実味を帯びて分かったのは、中国という国は日本人にはちょっと想像し難いような混沌を内部に抱えているということである。それは、国土の広さだったり、民族構成の複雑性だったり、国民の教育程度・経済状況の巨大な差だったりする。共産党一党独裁という在り方そのものが国際的に見れば特殊だということは北京大生も理解しているし、検閲やその他自由の制約に対し不満が存在することもまた事実である。しかし中国のあらゆる国内事情を鑑みたとき、現在の少数エリートによる意思決定や一定程度の自由の制限は、中国が中国として維持されるために必要だという感覚により、一定の諦観を伴いつつ正当化される。 絶対的教育格差のある中で、政府エリートの政治運営能力に対する根本的信頼は揺るがず存在し、そしてそれは共産党がこれまでもたらしてきた実際の政策成果により強化される。政府依存感覚も、日本とはかなり異なる。社会主義における国の役割の大きさという前提に加え、「政策による恩恵は政府のおかげである」という認識を国民に持たせる取り組みが徹底されていることもあり、中国では社会において何かが改善した場合それを民間あるいは個人の力とするよりは政府の力とする意識がまず働く。政策の実行プロセスで政府の存在が強調される中国と、政策のプロセスより結果が問われる日本とでは、政府の存在が意識される頻度も変わってくるだろう。

必要性ゆえの妥協と、政府の存在感の刷り込みと、実際の政策への満足。これら三つが混ざり合って、自国政治体制への彼らの信頼は成り立っているようだ。

 

いかがだっただろうか。

日中関係を考える土台となりそうな発見についてつらつらと書いてきたが、全ての議論を経て私たち東大側の中に生じてきた重要な気付きは、北京大生が中国人として自分たちの国を把握する感覚は、私たち日本人のそれと大して変わらないのかもしれない、ということだった。

上記のような中国の特殊性や日本との相違は、確かに存在する。教育や情報統制を通じて、政府が国民の意識形成に一定程度関与しているということも否定は出来ないだろう。しかし、洗脳されているとか自国の政治体制や政府を盲目的に正当化しているとして、彼らを正されるべき対象として捉えるのは筋違いと言える。中国で生きる中で彼らが自国の在り方や政府に対し肯定感を抱くようになるメカニズムは、私たち日本人が自由主義や民主主義を望ましい社会政治形態だと考えたり、日本政府に強くあってほしいと思ったり、大変革を必要とするほどには日本の現在の在り方が問題を抱えているとは思わなかったりすることと、そこまでかけ離れたものではない。

北京に行くまで私たち東大側の中にはどこか、「自国の在り方を盲信している北京大側に、(私たちが考える)真に正しい在り方を説いて納得してもらおう」という意識があったように思われる。しかしそれでは、何が正しいかに関する私たち側の盲信かつ押しつけになる恐れがあることに思い至った。彼らの知らない情報や批判について伝え、こちらの正しいと思うことをぶつけることは有意義だが、こちらの価値観が絶対的に正しいという前提のもと相手にそれを納得させようとするスタンスには、無意識の驕りを見出すようになった。それゆえ私たちとって難しかったのは、彼らの価値観や中国の行動のコンテクストが一定程度腑に落ちてくる中で、こちらの価値観の押しつけにならないよう意識しつつ、しかし両者間の不信の基となっている相違点をあぶりだすべく中国の在り方や彼らの考えに疑問を投げ続ける、という作業の両立だったと言える。

帰国後初めて中国に関するニュースを耳にして、はなからネガティブバイアスをかけることなく、北京大メンバーが真摯に語った自国論や彼らの顔を思い出している自分に気づいたとき、北京での10日間が私にもたらした中国観の変化を確かに感じた。

 

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およそ2週間後に始まる東京セッションで、平和分科会は山場とも言える歴史認識問題と戦後補償問題を扱う予定です。10月4日には駒場キャンパスにて、北京セッションでの内容も含めた総括プレゼンテーションを行います。私ですらどうなるか分からない新たな内容はもちろんのこと、ここに書ききれなかった北京セッションの内容も耳にする最初で最後のチャンスかもしれないので、もしお時間があれば、是非足を運んで頂ければ幸いです!

 

ありがとうございました。

 

文責:杉原 真帆(平和分科会)

 

(編注:以上の内容は個人の意見であり、弊団体を代表するものではありません。)

 

階層社会分科会 北京セッション報告

こんにちは、Social Mobility分科会東大側参加者の照井敬生です。

 

この記事では、私たちが9/7-9/14に北京で行った当分科会の議論について、自分なりにまとめて紹介したいと思います。

北京側で僕たちの分科会が行った議論は、Social Mobilityを規定するものとして、Social Classを決定づける要素の定義から始まりました。その結果、教育と仕事こそが重要だという合意に至り、そこから具体的なトピックとして、

1.大学前教育(Pre-University Education)、2.大学教育(University Education)、3.就職活動(Job Hunting) の三点について、日中の現状共有と問題点のあぶり出しを行いました。そうした現状分析に大いに役立ったのが、One day tripで訪問したTeach For Chinaでのレクチャーとディスカッションであり、教育の地域格差を巡る日本とはまた違った中国の現状について知見を得ることが出来ました。

一方で、Social Mobilityについて現状分析を行う中で、「北京大学東京大学という立場にいる自分たちには見落としている問題が現存しているのではないか」という疑問とも向き合うこととなり、これは東京セッションにおける課題として共有されました。

以上が北京セッションの議論内容についての概略です。

 

このように大まかな流れを書いてしまうと、非常に平坦ないしは滞りない議論に思えますが、こうした議論全体のフレームワークを形成するまでにも、実は大変な時間と労力を費やしました。

議論そのものを始める前に「議論をいかに進めるか」という所から合意を取り付けなければならない。これも国境をまたいだグループ討論ならではの難しさであり、同時にやりがいのある点だと思います。

議論全体をいかに組み立てるか、という問題を考えるにあたっては、相手の構想をくみ取る理解力と自分の考えを伝える説明力が非常に重要であり、そうした困難で面倒な議論に対して、粘り強くコミットすることの重要性を学べたのが、個人的な収穫の一つです。

 

このように進められた北京セッションですが、東京大学北京大学の学生が入り乱れて議論する中で興味深かった論点が二つほど挙げられます。一つ目は、受験制度について論じる中で生じた「公平な競争とは何か」という社会観に関するテーマであり、二つ目は「議論の価値を『解決策の提示』に求めるか『価値観の議論』に求めるか」という、京論壇に見出す意義に関するテーマでした。

どちらも客観的な事実を巡る問題ではなく、「自分が何を重視するか」という主観・価値観を巡る議論であったため、はっきりと答えを出しにくく、それ故に議論をする価値のある問題だと言えます。

 

こうした北京セッションでの活動を経て、二週間後に開かれる東京セッションにおいては、

1.北京で確立された全体構造に従って、「職場での評価システム」「ジェンダー」といった新しい問題について議論を行う

2.社会階層を巡る現状分析を行うにあたって、自分たちの立ち位置について批判的に検討を行う

3.各個人が持つ価値観の差異が鮮明になるような問いを立てて議論を行う

といった三点を意識したうえで、より一層議論を深めていきたいと考えています。

 

今後とも京論壇2015の活動にご関心を持って頂けると幸いです。

 

照井

サステナビリティ分科会 北京セッション報告

 「いかにサステナブルな社会を構築していくか」という問いは、日本にとっては、原発停止後の化石燃料の消費増加等のエネルギー問題、中国にとっては、pM2.5問題に象徴される公害問題という形で問われており、それぞれに対して、エネルギーミックスの策定、「新常態」政策などといった重大な政策決定という形でのアプローチが、今まさにとられているc。

 「サステナビリティ」に関する課題は、経済や外交安全保障などその他のトピックの裏に隠れがちである。しかし、上述したことから、実は「サステナビリティ」は日本・中国双方にとって今まさにホットな課題となっていると言うことができるのではないだろうか。日中両国において今後の両国の将来を担う若い世代の学生が互いに意見を戦わせることを通じてかような課題について真剣に考え、知見を深めることの意義はそこに存すると言え、それはまさに本分科会が存在する「理由」である。

 議論に先立って、我々はサステナビリティを「次世代の人々の生活水準と発展、および自然環境と人々の健康福祉保全するような形で資源を開発・活用すること」と定義した。一般に「サステナビリティ」という単語には環境保護のニュアンスが強く含まれるイメージがあるが、単に環境を保護するのみならず、経済発展を通じた人々の幸福の増進までを包摂してこそ「サステナビリティ」は達成されるとの認識が共有された結果、上述のように定義されることとなった。

 続いて、現状の日中両国それぞれにおける課題の認識を深めることを目的として、北京大学側によりpM2.5問題に関する報告、東京大学側により原発に関する報告がなされ、それらに基づいた議論が行われた。

最も興味深かったのは、pM2.5問題が中国のサステナビリティにおけるマイルストーンとなるかについての議論の中で呈された「pM2.5問題が中国におけるサステナビリティに関する意識をかえって上昇させた」というある意味皮肉な展開が生じたとする北京大生の見立てであった。近年中国の経済成長は鈍化し、直近では上海市場の株価暴落などの大きな経済問題を多く抱えている。その中で、「1日に数十本タバコを吸うのと同じ」効果をもたらすと言われるpM2.5問題は発生している。この事実は、中国社会に存在する多くのアクターを「サステナビリティ」、すなわち、「経済発展と環境保護の調和をいかに図るか」という問いに直面させている。 そのようなことを、彼らの認識は示唆するのかもしれない。

 さて、そもそもサステナビリティに関する認識がどのように形成され、サステナブルな社会を構築するために必要となる要素は何なのだろうか。これらを明らかにすることは、日中双方の認識の共通点・差異を見出し、サステナビリティに関わる諸課題を解決していくためには不可欠であろう。

 まず、一つ目の問い、すなわち、「日中両国におけるサステナビリティに関する認識はどのように形成されたのか」について、東大側が日本、北京大側が中国におけるサステナビリティの認識形成のプロセスに関する分析を提示した上で、それに基づく議論を行って一定の解を導出することを試みた。

 まず、東大・北京大側が互いに互いの分析を予想し合った。これらの予想は見事に異なるものだったが、実際の双方による認識形成プロセスに関わる分析は極めて似通ったものになるという非常に興味深い結果となった。その中で最も印象深かったシーンは、東大側が「中国における政府の力は人々の認識にまで食い込んでいるのではないか」という仮説のもとで予想を提示したのに対し、北京大生がそれを否定する分析を提示した時であった。

 次に、「サステナビリティを達成するにあたり重視すべきことは何か」という問いに挑戦した。この議論は、東大側・北京大側双方がそれぞれサステナビリティを達成するために最も重視すべきだと考える3つの要素を提示し合った上で、その共通点・差異の原因は何なのかについて意見を交わす形で進行した。

 「3つの要素」について、東大側が「エネルギー効率の上昇および最適なエネルギーミックス・国内資源の適切な管理・グリーンテクノロジーのイノベーション」を提示したのに対し、北京大側は「貧困(格差)問題解決・技術発展・環境政策の効果的な施行」を提示した。これらの3つの要素を分析すると、大きく見て東大側は環境問題の解決に重きを置いたのに対し、北京大側はどちらかと言えば経済問題の解決を重視しているということが分かる。これらの差異は、いかなる理由で生じたのだろうか。議論の中で、日本の経済成長はある程度のレベルに達し、地域格差も比較的小さいのに対し、中国においては、GDPは世界第2位ではあるものの、一人あたりのGDPは依然低レベルであり、深刻な地域格差が存在していることが注目された。このことは、日本は、引き続き経済発展が重要なテーマであることは自明ながら、他国と比較して環境保護により取り組みやすい状況下にある一方で、中国は経済発展が最重要であり、環境保護を重視することに依然として障害があるという認識につながる。そして、かような「サステナビリティの段階の差異」がそのまま「3つの要素」の差異につながったという一定の結論が共有された。

 ただし、日本においても、経済や生活の利便性の向上のために大きな経済発展を必要とする地方都市があること、逆に、中国においても、経済発展が一定のレベルに達したことによって、環境保全も重視するようになった都市があることも事実である、という認識が、ある2人のメンバーの出身地についてのプレゼンテーションで共有されたことも議論に深みを与えるハイライトであったと思う。

 北京セッションの議論全体を通じ、結果として様々な日中双方の認識の共通点や差異が認識された。その中で、多くのメンバーが、サステナビリティに関連する側面でも、サステナビリティに関連しない側面でも各自の中での互いの国に対する認識が変わった点があったと述べたことは、本分科会の北京セッションが一定の成功を収めたことの証左となろう。ただし、日中双方の認識の異同を明らかにするだけでは、議論として十分な成果をあげたことにはならないことも認識しなければならない。東京セッションでは、さらに多くの必要な要素を自由闊達な議論を通じて導き出し、より完成度の高いアウトプットを最終報告会でお見せできるように努力する決意である。

 今回の北京セッションでは、フィールドトリップ先として、太陽光発電を推進するHanergy社、エネルギーの効率活用に関わるコンサルティングサービスを提供するPRO-TECHT社にお世話になり、中国におけるサステナビリティの取り組みについて大変有益な示唆を頂いた。また、本セッションは、北京大側の努力がなければここまでの成果を出し得なかった。言葉の壁があり直接伝わらないのが大変残念ではあるが、心から感謝申し上げる次第である。

 

サステナビリティ分科会 幅上 達矢